奥只見の魚を育てる会

開高健しのぶアラスカ行 ~共に釣りを楽しんだ河、記念館開館を機に~

常見 忠

<ジョニーと。ロッジにて>
三年ぶり、二十三回目のアラスカ行きは、作家の開高健さんをしのぶ旅となった。

 開高さんと出会ったのは1968年。当時私は群馬県桐生市に住んでいて、ルアー釣りを初めて三年目。擬餌針とか擬似餌と言われていたころで、開高さんから、突然手紙をもらったのが始まりだった。

=手紙もらい二人で釣行=
 私は都内のデパートで擬餌針に出会い、好奇心で一式を買い求めて、出来て間もない人造湖の奥只見湖、通称銀山湖に大イワナがいることを聞き、通いつめ、雑誌に「湖の擬似針釣り」との記事を書いた。

 これを開高さんが読み「西ドイツ(当時)で覚えてきたのだけど、日本でやっているというあなたのことを知った」と手紙を寄越し、「銀山湖でイワナを釣りたい」と書いてあった。アイヒルマンの戦犯裁判の傍聴後に渡欧し、滞在中にルアーを買い、アルプスの湖でパイク(川カマス)を釣ったことも後に知った。

 最初の手紙から一週間後にまた、合って話がしたいと手紙が来て十二月の寒い日に開高さんを訪ねた。芥川賞作家を前に緊張したが、同じ昭和五年(1930年)生まれと知り、肩の力が抜け、三時間近くも釣りの話をし続けた。

 翌年三月末に日光の丸沼に案内し、これが二人の初釣行である。開高さんは64cmの見事なニジマスを釣り上げ、銀山湖でのイワナで雪辱をと、満を持していたのだが、週刊誌の「フィッシュ・オン」の企画が決まってアラスカへと旅立った。連載は好評となり、ルアーフィッシングをいっきに広めた。

=旧知のガイドから誘い=
 今年の春、アラスカのガイドのジョニー・R・ハリスから連絡があった。念願の手作りのロッジが、夏のシーズンまでに完成するから泊まりに来てくれというものだ。ジョニーとは78年夏に出会った。当時まだ助手だったが、腕に加えてウマが合ったのだろう。以来、ガイドを頼み付き合ってきた。開高さんも彼が好きだった。

 84年の「河は眠らない」のビデオ作成では、ジョニーにコーディネート役として腕を振るってもらった。最初、開高さんは出演を拒絶していたが、ヤラセの映像が氾濫していたので、私は「決定版といわれるホンモノの映像を今撮らなければ」と口説き落とした。

 六月末から一ヶ月間、開高さんとアラスカに滞在した。釣り三昧の日々で前にも後にもこんな経験をしたことはない。映像は今見ても美しく、素晴らしい開高語録が次々と出てくる。あのビデオは開高さんの言葉によって飽きることがない。

 この四月に芽ヶ崎市の開高さんの邸宅が「開高健記念館」として開館した。主なき書斎や遺品に私は涙した。この時ジョニーからの誘いがあることを話し、有志が応じ、みんなでアラスカに出かけることになった。

 ロッジは小さな湖に面して立っていた。昼間は釣りをし、夜は剥製が飾られた居間でウイスキーを酌み交わしながら、ジョニーと思い出を語り合った。開高さんはジョニーにベトナム戦争やヘミングウェイについて語り、ジョニーは開高さんにアラスカの自然や釣りの知識や技術を教えたという。「ギブ・アンド・テークのできる人で尊敬している」というジョニーに「与えられたもの」を聞くと「心をもらった」と返答があった。

<開高さんを思う。ヌシャガク河にて>

=はねるキングサーモン=
 竿を合わせた。ラインが引き出され、その先で巨体が水面をたたいて宙をはねた。キングサーモンだ。小型機で二時間半、ジョニーが案内してくれたヌシャガク河。開高さんの書斎の壁にはった地図に赤いマジックで丸く囲み、感嘆符(!)まで書き込むほど憧れてようやく釣行を果たした河だった。

 ジョニーはこのことを知るよしもないが、キーナイ河の魚影が薄くこの河を選んだのだろう。しかし、私には開高さんが導いてくれたように思われた。「忠さん、俺の代わりにしっかりと釣ってヤ」と。

 銀山湖には「フィッシュ・オン」のあと70年に案内した。開高さんは銀山平に籠り、代表作「夏の闇」の構想を練った。私も銀山平の麓の小出町に居を移した。

 釣り人が押し寄せた結果、イワナが激減し、これを憂い、開高さんを会長(現永久会長)をお願いして、76年に「奥只見の魚を育てる会」を組織した。十月に皆で集まり、飲み、語り合うのが楽しみである。

(2003.9.5 日本経済新聞掲載文)

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